──嗚呼、参ったな。しくじった。
 声には出さずに溜息を漏らし、私は目の前の少年を横目で見遣った。

「村正、先生、……ぼく、僕に、僕の、……」

 少年はぐるぐると焦点の合わない目で懸命に私を見つめ、譫言のように口走った。こうなってしまうと面倒だ。どうすれば彼を傷付けることなくここから返すことができるだろうかと思案する。──傷付ける、というのは身体的な意味ではなく、ましてや自分に迫る彼の心をという話でもなく、彼の脳や精神を破壊せずに現世へ返す、という意味だ。
 元々図書館へ足を運ぶことの多かった彼が、ここのところ私の妖気に影響を受けていたことは知っていた。だからこそ、気を配ってはいた。必要以上に言葉を交わさぬよう、近づいて触れ合わぬよう。
 ただ、油断していた。図書館を閉めてしまえば、もうここへ来るのは『彼』だけだと思い込んでいた。よりによって此方と彼方の狭間となったこの部屋に忍び込み、潜んでいようとは。

「──先生、村正先生、ぼくをみて」
「……悪いが君の望むものは此処にはない」
「嘘、うそだ、だってこの部屋は、こんなにいいにおい」
「常人は死に至るほかないぞ」
「かまわない、そんなことは、村正、村正先生がすべてだ、あなたをたべたい」
「…………。」

 これがこの力の本来の使い方なのだと頭で解ってはいても、気味の良いものではないと改めて思う。生き延びる事に必死だった頃──『彼』に再び巡り会う為には手段は厭わないと思っていた頃は、自分の食事方法に慣れこそすれ嫌悪したことなどなかった。しかし、今の自分は『彼』に出逢ってしまっている。彼の力を、味を知ってしまっては、食事にありつく為のこの機能も邪魔でしかなかった。尤も、常日頃『彼』の波長だけに合うように努力はしていたのだが、波長の似通った人間はどうしたって現れる。この妖気に捕まったら、どんな人間も正気ではいられない。少年は虚ろな、しかしうっとりとした目で私を見つめる。

(──やはり時間を稼ぐしかないか。既に妖気を閉じてから大分経つ……薄まるのを待って、自力で目覚めさせるしか……)
「先生? 何を考えてるの?」
「……っ、」

 不意を突かれ、感じた鈍い痛みに腕を掴まれたことを知る。想定よりも強い力に一瞬たじろぎ、腕を引かれるままバランスを崩してしまう。しまった、と思う間もなく肩を押され、そのまま床に倒れ込む。背中を打つ衝撃に反射的に閉じていた目を開けると、馬乗りになった少年が自分を見下ろしていた。

「どうして、ぼくは村正先生のことしか考えられないのに、どうして? ぼくのことは、」

 憐れな少年は譫言を呟きながら、飢えた赤子の獣が母親の乳を探るように私の身体をまさぐりだした。
 ──間に合わなかったか。溜息と共に呟くが、最早少年の耳には何も届いていない。芋虫のように稚拙に這う指の感触を意識の端へ追いやりながら、私は閉ざされた少年の未来と、『彼』への不義理とに懺悔した。とは言え、どちらも一方的で無意味な自己満足でしかない。少年も、『彼』──響河も、私のこの姿など知る由もないのだから。


 不意に、伸し掛かっていた重さが紛れ、目を開けてみると少年の身体が見えない糸に引っ張られたかのように横倒しになっていた。
 少年は眠っているかのように穏やかに目を閉じ、先程までの鬼気迫る様子は消え失せていた。自由になった身体を起こし目を瞬かせていると、どうして急に少年が目覚めたのか、その原因の一つの可能性に思い至る。
 ──まさか。そんな筈は。有り得ない。けれど、そんな事ができるのは──

 バタンと大きな音を立て、扉が開く。招かれざる人間には到底開くことのできない扉だ。息を切らし、そこに立っていたのは、紛れも無い『彼』だった。

「──響河、どうして……」
「……理由は解らないけど、途轍もなくイヤな、胸騒ぎがして、…」

 響河は、床に転がっている少年をちらと見遣る。

「……来てみたら、中で一人呆けてる奴がいたから、起こした」

 少年は響河の言葉が終わる頃に、霧のようにすうと姿を消した。彼方で完全に目が覚めたのだろう。中から起こすよりも、外から起こす方が容易い。但し、相応の力を持っている者の話だ。
 響河はつかつかと歩みを進めて私の傍まで来ると、視線を合わせるように座り込み膝を突いた。私を咎めるような、しかし何処か泣きそうな眼で痛い程に見つめられ、思わず顔を覆いたくなる。それでも、その翡翠色の瞳から目を逸らすことは叶わなかった。

「どう、して……呼んでいないのに、」
「……どうしてって、訊きたいのは俺の方なんだけど」

 響河はガシガシと頸を掻くと、呼吸を落ち着けるように息を吐き出した。

「……とりあえず、これ」

 ふいと顔を背け、ぶっきらぼうに伸ばされた手には、床にでも落ちていたらしい私の上着が握られていた。そこで初めて、自分の着衣が中途半端に乱れたままだったことを思い出し、上着を受け取る。礼を言おうにもばつが悪く感じられて、思わず口を噤んだ。
 震えそうになる指を御し、何とか上着を肩へかけると、響河が小さく息を吸い込む音がきこえる。

「それで……あいつに何された…いや、何をしてた?」
「…、っ……」
「最初から、俺でなくても良かったのか」

 低く絞り出すような声に、思わずぴくりと肩が震える。

「それは違う、あの少年は誤って呼ばれてしまったのだ」
「じゃあもう呼ばなきゃいい」
「……それでは、響河が……」
「俺のことも呼ばなくていい。呼ばれなくたって来てやる、村正が来るなって言っても」

 畳み掛けるように言い放たれ、唖然とする。
 話が噛み合う筈がない。噛み合ってはいけないのだ。彼は正気ではなかった筈だ、私がそうさせていたのだから。彼が、「呼ぶ」ことの意味を理解できる筈がないのだ。思わず口を突いて出た弁明の、意味が解る筈がない──
 返すべき言葉を考えあぐねていると、響河の腕が伸ばされ、かさついた指が私の頬をするりと滑った。驚いて目を見開いた私の顔がよほど可笑しかったのか、響河はふっと息を漏らす。その様子に自分も僅かに安堵してしまうのを感じた。

「──あいつも、こうやって村正に触れたのか」
「…、いや……」
「お前が何考えてるのか……何がしたいのかは全然わからない……。けど、村正、俺に言っただろ」

 この世に俺だけだ、って。
 響河の唇がそう紡ぎながら、僅かに震える。
そうだ。響河だけだ。私が全てを棄てたのも、百余年間待ち続けたのも、想い続けたのも。──それから、醜いエゴを押し付け続けたのも。
 『彼』に再び巡り逢う為にはどんなことでもしようと思った。その為に他の誰が犠牲になっても構わないと思っていた。しかし、彼の魂は『彼』そのものであったとしても、転生を遂げた『彼の身体』は、私が犠牲にしてきたうちの一人でしかないと気付いてしまったとき、私は躊躇した。
 それでも、今世に『彼』は、たった一人しか存在しないのだ。

「……なあ、村正。お前は一体何を怖がってるんだ?」
「怖がって、など……」
「だったらこんな回りくどいこと、しなければ良い。俺に用があるなら、最初から俺に……」
「仕方がないだろう、正気のお前がこんな私を、受け入れられる訳がない!」

 口を突いて出た声は思ったよりも大きく、響河が驚いて目を見開くのを視界に捉える。どくんどくんと身体が脈打ち、走った後のように息が切れる。ひとりでに震える肩を掻き抱いて、俯く。
 怖くて堪らなかった。再び響河を失うことが。自分のエゴが間違いだと、当たり前の現実を突きつけられるのが。躰も心もばけものになってしまった自分を見つけられるのが。響河にそのすべてを、拒絶されることが。

 不意に、肩に爪を食い込ませていた手を取られる。両の手首を掴まれ、振り払おうともがいても力が上手く入らない。

「村正」
「……っ、何を…」
「こっち見ろって」

 有無を言わせない声色で言われ、思わず顔を上げてしまう。まっすぐに自分を見下ろす翡翠とかち合い、眩しさに目を細めた。

「村正は、ずっと俺が正気じゃないって思ってたのか」
「…………」
「今だって、『呼んで』ないんだろう?ならどうして俺は此処にいる?」
「…………」
「確かに、頭がぼうっとするときも記憶が曖昧なときもあったけど、俺が『あんなふうに』なったことなんて一度もない」
「……、やめてくれ…」
「なぁ、本当は気づいてるんだろう」
「っもう、やめてくれ…っ!」
「嫌だ」

 ぐいと掴まれた腕を引っ張られ、上半身が引き寄せられる。ぶつかりそうなくらい響河の顔が目の前にあり、息を飲んだ。

「……村正がヒトでないことくらい、わかってる。それでも此処にいるのは俺の意思だ。……無視、するな」

 最後の言葉尻は、僅かに震えていて。私は漸く観念した。
 これまで『彼』の魂を追うあまり、信じられずにいた。響河という人間そのものの魂を。あまりにも純粋で幼いその魂は、百余年取り残された魂よりもずっと大きく、強かった。

「──すまなかった、響河……」

 ぽつりと音が溢れ、翡翠の瞳をようやくまっすぐに捉えることができる。私の腕を掴んでいた響河の手は、徐にそれを解放したのち再び私の頬へ伸ばされ、仕舞いに親指でつうと唇をなぞった。
 そのまま静かに目を閉じると、数秒の躊躇ののちに響河の唇が私のそれにゆっくりと重ねられた。
 啄むように何度か表面をくすぐられたあと、舌先で唇の隙間を撫でられこちらも舌を出すよう促される。おそるおそる口を開くとあっという間に舌に吸い付かれ、絡め取られた。無意識のうちに鼻から声が抜け、唇同士の隙間から飲み込み切れない吐息と唾液が溢れる。
 みるみるうちに身体の力が抜け、知らぬ間に背中に差し入れられた腕に半分ほど体重を預けてしまっていることに気が付く。体勢を整えようと慌てて床に手を伸ばすも、またその腕を響河に掴まれてしまう。
 気づけば私は再び床に縫い付けられ、響河は先刻の少年のように私の上に馬乗りになりながら私の唇を食んでいた。しかし、感じる重さも、熱も、先刻とは全く違う。触れ合った場所が、息苦しさが、潤んだ視線が、全てが熱くて熱くてたまらない。

「ん、ぁ……は、…こう、が……」
「、はぁっ……村正、お前はなんにもするなよ。……したら、怒るからな」

 子供っぽい言い方に思わず顔が緩む。しかし間もなく乱れたままだった上衣の裾から侵入してきた手に、肩が震えてしまう。何もするなと言われずとも、蛇を前にした蛙のように指の一本すら動かす気になれない。例え私が能動的に何もしなかったとしても、私にとってこの行為の持つ意味は変わらない。だのに、これではまるでこちらが食される側だ。
 脇腹をなぞりながらすっかりシャツをはだけさせられ、露わにされた肌を確かめるように唇を落とされる。鎖骨の辺りから徐々に下がっていき、つんと立った乳首を探し当てられると、ぬるりと唾液を塗り込められ思わず腰が跳ねる。そのまま舌先で先端を抉られれば、甘い痺れが背筋を伝った。

「ぁ、あ……ん、ぅ…」

 漏れ出た声に気を良くしたのか、響河はそろりと臍の上へ指を滑らせた。その指の行き着く先へ思い至ると耳の辺りにかっと熱が集まる。片手で器用にズボンの前を寛げると、下穿きの上から勿体つけるようにそこをひと撫でする。その形を彼に認識されるのはやはり堪え難い羞恥を感じる。しかしその抵抗感とは裏腹に、じくじくとした疼きが下腹部に溜まっていく。思わず太腿を擦り合わせて身動ぐと、それを合図に響河の手が下穿きの中へ侵入してきた。ほんの少し奥へ指が運ばれただけでくちりと湿った音を立て、いよいよ顔から火が出そうになる。

「……すごいな…」
「それ以上、言うな……っ」

 顔を背けながら言えば、響河もそれきり口を噤む。しかしそのせいで、水音と二人の荒い息遣いがはっきりと聴こえてしまう。せめてみっともない声は出すまいと唇を噛み締めていると、怪我するだろ、とひと睨めされる。

「どうせここには誰も来られないんだろう?声我慢するなよ」
「ゃ、……ぁ、あ…っ、ん…ッ!」

 溢れ出る蜜を指先で掬い、探り当てた陰核にそれをぬるぬると絡められる。周りを念入りに撫でられたかと思えば、突起を根本から扱き上げられひとりでに声が漏れる。下穿きの中が更にむわりと湿気り、愛液がつうと尻の方に伝うのを感じた。ふるりと腰を無意識に揺らすと、身体を起こした響河に下穿きをずり下ろされ、そのままズボンも全て脚から抜き取られる。外気に晒されたそこがひくりと戦慄くのと同時に、響河の指がつぷりと中へ入り込んでくる。熱く泥濘んだそこは響河の二本の指を容易く飲み込み、彼の喉仏がこくりと上下するのが視界の端に映った。
 何度か抜き差しした後、ぐるりと中を拡げるように動作される。くちくちと空気を含んだ音が響き、堪らず脚を閉じようともがくが、響河に身体ごと脚の間に入り込まれて阻まれる。そればかりか、膝の裏を持ち上げられ大きく開脚させられてしまう。一旦指を引き抜かれ、喪失感にぱくぱくと口を開けて震えるそこに再び本数の増やされた指が埋め込まれる。止め処なく溢れる蜜でぐちゅぐちゅとまた大きな音を立て、柔らかく熱く高められていく。熱は全身に伝染して脳まで溶かし、もっとほしいと、ただそれだけしか考えられなくなる。

「、ふ……っぁ、ん、こう、が……っもう……」
「……っ、ん……わかった、…」

 響河は指を抜くと、服をずり下ろして既に張り詰めた陰茎を取り出し、そのまま何度か手で扱いた。思わずその光景を凝視していると、挿れるぞ、と言った響河と視線が合い、ぞくぞくとした愉悦が背筋を這い昇った。もう片方の手で腰骨を掴まれ、蕩けきったそこへ陰茎が当てがわれる。ゆっくりと押し入られると、これまでにない充足感に身体中が満たされていく。

「ぁ、あ……ッ! は、…ぁ……」
「っ、…熱……っ」

 ひとりでに腰が浮くと同時に背骨が撓り、閉じることを忘れたかのような口は舌を突き出すしかなく、意味のない母音を吐き出している。初めてではない筈なのに、これまでの行為とは全く意味の異なるものだということを思い知る。響河を受け入れた中は自分の意思とは無関係に別の生き物のようにうねり、再び出て行くのを阻むかのように吸い付いた。全てが中に収まり奥に達すると、得も言われぬ熱がそこから全身に広がり、ゆっくりと息を吐き出した。胸を大きく上下させ呼吸していると、少し不安げな顔をした響河が上体を倒し、私の首元へ唇を寄せる。私は応えるように腕を響河の首へ回した。
 それを合図にし、響河が腰を引きずるりと陰茎が引き抜かれ、抜け切る寸前で止まる。引き留める内壁がきゅうきゅうと切なげに吸い付くが、間髪入れずに再びずりずりと押し込められる。また抜かれ、奥まで貫かれ、何度も繰り返し徐々に抽送が速められていく。その度に奥で受け止める衝撃はどんどん大きくなり、躰を揺さぶられるままに嬌声が上がる。

「んぁ、あッ……ひ、ぁ…っ! んん…ッ」
「…ッ、……むら、まさ…っ」
「ぁ、こ、ぅが……っア、はぁ……ッ、ん、!…」

 響河の背中を掻き抱いて、必死に熱を呑み込む。耳元に響河の吐き出した熱い息を注ぎ込まれ、ぱちゅばちゅと肉のぶつかる音と一緒になって耳を犯される。腹の奥に溜まる熱がどんどん大きくなり、それを弾けさせようと内側全体がびくびくと痙攣する。響河が呻き声を上げ、中にあるものもどくんと大きく脈打つ。

「っぅ、あ…!村正、も…出る……ッ」
「あ、ぁッ…! い、く、ぁ……こ、が…、イッ…!ぁあ…ッ!あ、〜〜〜……っ!!」

 奥に熱を吐き出されるのと同時に自分の中の何かも弾ける。がくがくと震える爪先を響河の腰に回し、最後の一滴まで全て飲み下す。ずっしりとした余韻を感じながらようやく痙攣が収まった頃、大きく息を吐き出し躰の力を抜くと、響河もまたふるりと震えながら息を吐き、汗に濡れた睫毛を煌めかせながら私を見下ろした。ゆっくりと陰茎を引き抜くと、響河はまた呆けて半開きになったままの私の唇を食んだ。私もその唇の感触を味わっていると、先程とはまた違うじんわりと穏やかな熱がとくとくと流れ込んでくるのを感じた。


 百余年の間、深く黒く空いていた孔が、この世で唯一の翡翠色に満たされていく。





20180817
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