これは、吾のたった一人とも言える『友人』との、思い出話である。


 吾は生まれ落ちた瞬間からこの大きな図書館の管理を任され、数千年の間そのためだけに生きた。
 この図書館は、『外側』こそ時代や周囲の地形に合わせ変化しているが、その本質は設立以来変わらない。図書館の奥には、人間には到底辿り着けない閉架書庫が無数にあり、そこには『こちら側』の書物が保管されている。その殆どが危険なもの、貴重なものであり、現世にはその存在すら勘付かれてはならない物だ。閉架書庫を訪れる者達はヒトならざる者に相違ないが、その中で正規の手続きを経た者に書物を貸し出したり、また力を蓄えすぎて持て余した書物を保護または処分したりする依頼を受けている。
 とは言え、吾自身が直接その者達とやり取りをする訳ではない。吾は図書館を司る存在として、問題が起こった場合にその対処をするのが主だった役割であり、普通の客には存在すら認識されることはない。
 例えば強大な力を持った禁書を狙うけだものが侵入すれば蹴散らし、ある禁呪の書が暴走すれば再び封をし、という具合に役目を果たしていたが、そうした事件の発生頻度も低ければ、まして有象無象の相手をして雑用まがいの仕事をする気にもなれない。長い間大いに暇を持て余し、何十年も眠ったまま過ごすことすらあった。

 ある時、そんな日々が一転して変わる出来事が起きた。あれは、今からほんの百年余り遡った頃。

 図書館の一角から、大層どす黒く重苦しい恨言のようなものが聴こえた気がした。はじめは敵襲かとも思ったが、その声は此方と彼方の狭間の辺りから聴こえ、その上限りなくヒトの世に近い場所であった。あまりにも五月蝿いので、何か弱い獣でも迷い込んだのであれば追い返さねば、と重い腰を上げる。
 声の発する方へ赴けば、そこには黒いものを幾重にも纏った細身の青年が行き倒れていた。獣ではなく、より厄介な──人間だ。
 声はどうやら『黒いもの』から発せられている。耳を寄せても何を言っているのか聞き取ることも理解することもできなかった。一先ず本人は意識を失っているらしかったので、ぺちぺちと軽く頬を叩き起こそうとする。二、三度叩けば、閉ざされた瞼がぴくぴくと動き、くぐもった声が漏れた。

「これ、起きぬか。こんな往来におって踏み潰されても知らぬぞ」
「…んん……、」

 青年は呻き声を一つ上げると、ゆっくりと目を瞬かせた。徐に身体を起こすとぐるりと周りを見回し、目の前の吾の姿を見つけると驚いたように目を見開いた。そして開口一番、誰にともなく呟く。

「……此処は地獄か?」
「何を言うておる?」

 頓珍漢なことを言う青年に一瞥くれると、彼は溜息を吐き大きく肩を落とした。

「……私はまた、死ねなかったのか……」
「ぬし、何者じゃ?妾の図書館に五月蝿い羽虫を持ち込みおって」
「? 何のことだ?」
「この黒い衣のことじゃ。まさか気づいておらぬのか」
「私には、此処が何処かすらも……」

 戸惑ったように眉根を寄せる青年は、どうにもとぼけている様子ではなさそうだ。ヒトの形をしながらヒトならざるモノを連れてきた男に、興味が湧いた。

「ここは妾の図書館じゃ。ヒトの世とは交わる筈のない書物を管理しておる。ぬしはどうやら『正面玄関』から迷い込んで来たな」
「図書館……君のような少女が、何故一人で此処に?」
「なるほど、妾はヒトにはそのように見えるのか」
「……何でも良いが、帰り道を教えてはくれないか。此処がヒトの世でないと言うのなら、私は死に損なって夢でも見ているに違いない」

 頭を抱えふらふらと立ち上がろうとする青年に、待てと声を掛ける。

「ぬし、名は何と言う」
「……? 村正と言うが…」
「死に損なったと言ったな。ぬしが死のうとした時、誰か他の者が命を落とさなかったか」
「!……」

 青年──村正は、その言葉を聞いた途端ぴくりと肩を震わせ、顔を強張らせた。

「話を聞く気になったか。……一先ず、五月蝿い羽虫は処分させてもらうぞ」
「、だから一体何の……、っ!」

 腕を一振りすれば、ばちんと大きな音がして村正に纏わり付いていたものがどろどろと溶け落ちる。墨汁のようなそれは逃げるように床の継目の隙間へと吸い込まれていった。──途端、村正の身体ががくんと崩れ落ち、膝を突く。震える両手で何とか身体を支えるが、冷や汗が噴き出し肩で呼吸をしている様子だ。

「──…何を……っ」
「今のはこれまでぬしを支えていた杖のようなもの。元を辿れば──ヒトの魂じゃ」
「!?」
「ぬし、もはや半分ヒトではないな」
「……どういうことだ…?」
「どういうことか訊くのは妾の方じゃ。ヒトの世で何があった」

 最早、こんな行き摩りの死に損ないの相手などする必要もない。役割の範疇を超えているばかりか、全くの無関係だ。そうとは解っているものの、どうしてかこの青年をそのまま捨て置くことはできなかった。ヒトの形をしながら限りなく『こちら側』に近い魂を感じたからなのか、或いは、単に数千年生きてきて初めて言葉を交わしたヒトであったからなのか。


 村正の話はこうであった。

 数年前、村正には生涯を捧げようと誓い合った相手がいた。しかしその相手は身分も違い、その上同性である。どちらの家からも許される筈もなく、ひとたび密会がばれれば瞬く間に糾弾され引き離されてしまった。先に手を打ったのは相手方の家であった。彼は顔も知らぬ華族の女と結婚を取り付けられ、村正とは二度と会うことを許さないと言い渡された。
 彼は家を抜け出し追っ手を振り払い、村正を迎えに行く。そして彼は、結ばれ得ぬ今世を棄て、来世で一緒になることを提案し、村正も同じ気持ちであった為それを受け入れた。
 二人はその晩に心中を図るが、どういうわけか村正だけが生き残ってしまう。彼を追って来た家の者に捕らえられ、失恋を苦に彼を唆したとして殺人の汚名まで着せられてしまった。
 それから幾度となく自害を図るが、何度やっても死ぬことができず、そればかりかその度に身近にいた誰かが身代わりのように命を落とすのだ。
 確実に死ねる方法を探そうと、藁にも縋る思いで図書館に知恵を求め、気づいたときにはこの場所にいたという顛末であった。

「……ぬし、ヒトの身でありながら陰の気が強すぎるな」
「いんの、き…?」
「陰と陽。ヒトであろうとも言葉の概念くらいは知っておろう。こちら側においては生と死を司る力としての面が強い。陽の気は、生命力を生み出す力。陰の気はそれを吸い取り、奪う力を持つ。双方が等しく釣り合っていないとどうなるかは、想像に易いだろう」
「生命を、奪う力……」
「先程の黒い衣は、ぬしが吸い取った魂の成れの果てじゃ。とはいえ、腐ってもヒトの身。不完全な気ゆえ魂を吸い寄せたのみで、実際に吸収したのはほんの上澄みであろう」
「そ、んな……それでは私が……私が響河を、殺したと言うのか……?」

 村正はかたかたと身体を震わせ、爪で血が滲むほどに両手を握り締めた。

「……不憫であるな。愛や執着といった強い情念は己の持つ気を高めやすい。生来強かったものが引金を持ち、益々強大になったのであろう」

 不憫である、と、その言葉は自分でも驚く程にすんなりと口から出た。ヒトに、否、他者に対してこのような感情を抱くのは初めてだった。
 あまりにも哀しい境遇であるということだけではない。ヒトでありながら、その情念の強さだけで半鬼と化した魂そのものに、強く心惹かれた。
 その情念は、どこまで大きく強くなれるものなのだろうかと。


「ぬし、妾と契約する気はないか」
「……は?…」
「ぬしの気の大きさ自体は稀代である。みすみす失うのは惜しい」
「……そんなこと、私の知ったことではない。それよりも、膨大な知恵を蓄えていると言うのなら、私を殺す方法を教えてくれ。私も早くあちら側へ行きたい。響河のいない生など、続く意味が……」
「あると言ったら?」

 村正は俯いていた顔を上げ、眉根を寄せた。いい加減にしてくれと吐き捨て、噛み付かんばかりの勢いで睨む村正に、話を聞けと嗜める。

「ぬしの想い人に再び出逢う方法がある。ぬしらが最期に縋ったものと同じじゃ」
「どういう意味だ……」
「まさしく輪廻転生。ぬしの魂の片割れが再びヒトの世に生まれ落ちるまで、ぬしは待つ覚悟があるか?」
「……私が死にたくても死ねないと言うから、揶揄っているのだろう。まさか百年経っても死なないと思うほど馬鹿ではない」
「だから、妾が本当に死なぬ躰にしてやると言っている」

 村正が、未だ意味を図りかねるように顔を顰めた。

「ぬしは死ねない。既にヒトの身で他者の魂を喰いすぎた。ヒトのまま、また死のうとしても更に命を引き寄せ、遂には背負いすぎた魂の残骸に潰され完全な鬼人と化すだろう。そうなっては、ぬしの魂はどこにもない。例え百年後、片割れが再び生まれ落ちたとしても、永久に半身のまま。ぬしがそれを許そうと思うまい」

 吾の言葉を聞いた村正が唇を震わせ、睫毛を伏せるのが見て取れた。ここまでヒトの世に影響を及ぼした情念だ。簡単に棄てたり諦めたりできるものではない筈だ。

「妾との契約は、この地に留まり共に図書館の管理を担う代わりに、ヒトの理を外れた躰を授けること。ぬしの身体を『こちら』の躰に作り替え、自らの意思で気を扱えるようになれば、彼の魂を待つ充分な時間も手に入られよう。その代わり、それがどれだけ時間がかかるか、百年、数百年で済むのかどうかも判らない。妾とてもはや幾千年の時を生きておるのじゃ。それだけでない。こちらではヒトの倫理や常識は一切通用しない。ヒトの世を完全に棄て、『こちら側』の理に身を投じる覚悟が、ぬしはあるか?」
 暫しの沈黙ののち、村正が顔を上げ吾を見据えた。ようやく吾の言葉の全てを飲み下せたのであろう。その薄水色の瞳が、色に似合わぬ灼熱をたたえているように思えた。

「……何百年、例え何千年かかったとしても構うものか。もう一度響河に逢えるのなら、どんなばけものにもなろう。……それが、私のために全てを棄てた響河への、せめてもの償いだ」
「──良かろう。契約成立だ。『吾、久延比売命の名に於いて、この者を幽世へ歓迎しよう。名を村正。根をこの地に降ろすべし』……ぬしの名に於いて承服す、と言え」
「……村正の名に於いて、承服す」

 その瞬間、辺りを蒼い光に包まれ、村正は反射的にぎゅっと目を瞑った。光は数秒ののちに収まり、もう目を開けて良いと促せば、おそるおそる瞼が開かれる。

「……何か変わったのか」
「確かに。今は実感無くとも、そうだな……じきに『渇いて』くる筈だ。その時にまた説明しよう」
「渇く……? 、っ!?…な……!?」
「ん?どうした?」

 突然、村正が目を白黒させ、問い掛けても絶句したままだ。しばらくしてようやく口がきけるようになったらしく、視線を泳がせながら口を開いた。

「その……無くなっている」
「何がだ」
「他は何処も変わらないようだ……が、男性器が、ない」
「……ほう?」

 聞くや否や無遠慮に彼の股間を掴むと情け無い抗議の声が上がり、掌には想像通りの平らで柔らかな感触があった。

「ぬしの陰の気は妾の思う以上に凄まじかったようじゃな。よくヒトの世で雄の形を保っていたものよ」
「……わけがわからない…」
「陰の気は生来女体に強く出ることが多くてな。生死を司る以上、生殖器とも強い結びつきがあるのじゃ。陰の気は特に女性器のカタチと相性が良い。より気を扱いやすいカタチへ変化しただけの話だ。……元よりぬしは最早ヒトではないのだ。些細な問題でしかあるまい」

 先程まで不思議な程に落ち着いていたものを、流石に混乱した様子が隠せないようで、村正はそうかと呟いたきりしばらく呆けていた。
 いい加減に図書館の奥へ連れて行こうと袖を引っ張れば、大人しく後を付いてくる。しばらく連れ立って歩いていると、脚を動かしたことで冷静さを取り戻したらしい村正が再び口を開いた。

「……先程言っていたのは、君の名前か。クエヒメ…とか言ったか」
「ああそれか。……大嫌いな名を教えねばならぬゆえ、契約などしないに越したことは無かったが……それよりもぬしに興味が湧いたのだ、有り難く思え。契約者に限っては妾の名を呼んでも良いことになっているが……呉々も他の者には漏らすなよ?」
「自分の名が嫌いなのか?」
「うら若き少女を捕まえて腐った案山子などと抜かしたものよ。知恵の象徴など他にいくらでもあろう」
「何千年も生きていて、うら若きとは恐れ入るな」
「名付けられた時の話じゃ」

 出逢ってからずっと険しく強張っていた村正の顔が、ようやく僅かに綻ぶ。吾はその強大な気を目の当たりにした時よりもずっと、心揺さぶられるのを感じた。この数時間足らずで、これまで生きた千年よりもずっと濃い生を体験している。──彼との出逢いは、思っていた以上に必然だったのかもしれない。

「──なるほど、片割れの魂がいつまでも離さない訳じゃ」
「……何か言ったか?」
「なに、独り言だ」
「そうか。……それで、その名が嫌いなら私は君を何と呼べば良い?おそらくは、永い時を君と過ごすことになるのだろう。呼び名が無ければ不便だ」
「否、ぬしだけであれば、好きに名を呼んでも構わないのだ。契約者は特別だからな。だが、そうでない時は……そうだな、妾はここの主であるゆえ──」

 《図書館》、と。敬意を持ってそう呼ぶが良い。
 そう答えれば、村正はまた小さく笑い、仰せのままに、と言った。





20180817
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