「あ〜〜…終わらねえ〜〜……」

 大学に上がって二年目に入り、目に見えて課題の量が増えた俺は大きな溜息を吐いて机に突っ伏した。やってもやっても遅々として進まない課題に嫌気が差し、こんなことで貴重な休日を潰されてしまうのが腹立たしかった。提出日は明後日の月曜日、今日が終われば提出までもうあと一日しかない。

「……何だって俺がこんなこと」
「父さんの跡を立派に継ぐためだろう。手を抜くとすぐにばれるぞ、響河。あの人は目敏いからな」
「わかってる……」

 後ろから声を投げかけたのは、大学卒業の年を迎えた二歳上の兄の村正だ。課題が進まないから見張ってくれと自室へ呼び寄せた。手は貸さないからなという宣言通り、部屋の小さなソファに腰掛け本を読んでいる。はじめから期待などしてはいなかったが。
 俺の家は四代続く会社を経営しており、自分も大学を卒業したのちに長男として五代目を継ぐことになっていた。村正は兄と言っても血の繋がりはなく、幼い頃父親が里子に取りこの家に入ったのだ。村正は事故で両親を亡くして他に身寄りが無く、父親が親友同士だったことがきっかけでうちに引き取ることになったという話を聞いた。父さんは俺には厳しいが村正には大層甘い。会社のことがある故というのは重々理解しているつもりだが、村正は俺のそういう立場をいつでも気にかけてくれた。血の繋がりは無くとも、幼い頃からずっと良き相談役であり、俺が甘えることのできる数少ない相手だった。
 そして今日とて、いつものようにすっかり甘えていた。

「私がいると余計に集中できないんじゃないか?」
「いや……そしたら寝落ちて今日が終わるに決まってる」
「そうか……」

 村正は読んでいた本に栞を挟み、しばし何かを考え込んでいた。俺は机に頭の側面をくつけたまま、村正の睫毛が伏せられるのをじっと眺めていた。このままではどう転んでも今日が終わってしまいそうだ。諦めの境地へ着々と歩みを進めていると、不意に村正が再び口を開いた。

「こういうのはどうだ?もし今日中に課題を終わらせることができれば、今夜はささやかな成人祝いに部屋で一緒に飲もう。お前の気の済むまで付き合うぞ。その方が明日は有意義な日曜になると思わないか?」

 それを聞いて突っ伏していた頭を上げ、村正を見遣る。少し前に俺は二十歳の誕生日を迎えたばかりだった。節目の歳ということもあり両親も勿論祝ってはくれたが、この歳になると家族で誕生会などしなくなっている。我ながら子供っぽいとは思いつつも単純に村正が一緒に祝ってくれると言ったことが嬉しかった。
 是が非でも課題を終わらせなければならない理由のできた俺は俄かにやる気を出し、机に向き直った。そんな俺を見て村正は小さく笑うと徐に立ち上がった。

「私がいてはやはり邪魔だろうから、台所を借りて今夜のつまみでも仕込んでこよう」
「村正が作るのか?」
「ああ」
「期待してる」
「私も響河の頑張りに期待しよう」

 村正はそう言って俺の部屋を出て行った。昔から彼は、こんなふうに俺を乗せるのが上手いのだ。俺は入学以来初めての集中力で以て、課題の山を片付けていった。


  ***


「……、っし、終わった…」

 最後のレポートをチェックし、教授へのメール送信ボタンを押してしまうと両腕をぐっと突き上げて思い切り伸びをした。夕飯も忘れて続けてしまっていたが、そのまま時計を見れば二十一時を回っていた。
 一息吐いて、課題を始める前のことを思い出す。村正は宣言通りつまみを作ってくれたのだろうか。途端にそわそわと浮き足立つ心を落ち着けて立ち上がる。酷使した首と肩がびきびきと軋み、イテテと思わず声を上げて肩を回しながら、部屋を出てキッチンへ向かう。扉を開けると台所にはやはり村正が立っており、俺に気がつくと顔を上げて破顔した。

「終わったか」
「ああ」
「お疲れ様。夕飯は夕方三人で済ませてしまったんだ。声かけなくてすまなかったな」
「俺も忘れてたから大丈夫だ。それに村正が作るの、楽しみにしてたしな」
「それは光栄だな。夕飯の残りもあるから少し持っていこう。飲み物は私が持っていくから、テーブルに出すもの部屋に運んでくれないか」
「わかった」

 村正が冷蔵庫からいくつかラップのかかった皿を出し、俺はそれらをトレーに乗せて部屋へと運んだ。少し遅れて村正も飲み物を持ってやってくる。ローテーブルを部屋の真ん中に出し、その上に料理をならべれば今日一日の頑張りが報われる思いがした。

「一通り持ってきたから、好きなものを飲むと良い」

 そう言って村正は缶ビールやチューハイ、日本酒やワインなどを並べ、自分は日本酒をグラスに注いだ。俺はとりあえず冷えたビールを掴み、こちらにグラスを傾ける村正と乾杯した。村正の手製のつまみはどれも美味しく、俺は明日も休日であることに大いに感謝しながら村正との語らいを楽しんだのだった。


「……でさー、あの時も父さん、俺がゲーム欲しいって言っても絶対ダメだって言ったのに、村正とやるからって言ったらあっさり買ってくれたよな」
「そうだったな。私が良いストッパーになると判断されたのだろう」
「そうか〜? 単に村正にデレデレなだけだろ」
「その私がきっかり一時間でやめさせていたのだが」
「そうだけど……そういえば、本当に一時間で電源切られて大泣きしたことあったな。セーブする前に」
「まだ覚えてたのか」
「あのステージクリアするのに一週間かかってたからな! それからセーブだけは書かせてくれるようになったっけ」

 村正と肩を並べて他愛のない幼少期の思い出話に花を咲かせているうち、夜も更けてきてだいぶ酔いも回ってきた。頬が熱く、頭が少しふわふわする。村正が一緒だということが更に酔いの回りを早くしているような気がする。何しろ村正は俺よりも酒に強く、父さんとサシで付き合える程だ。知らず知らずのうちに村正のペースに釣られ、少し飲みすぎているのかもしれない。村正はあまり顔色が変わらない方だが、今日は白い肌が僅かに上気し仄りと色付いているのが見て取れる。不意に、響河と名前を呼ばれ、自分がしばらくぼんやりと村正の様子を眺めていたことに気づく。村正はそんな俺の様子を見てくすりと笑った。

「酔ってそろそろ眠くなってきたか?」
「そ、んなことない……夜はまだこれからだろ!」
「それは頼もしいな」

 村正はまた笑みを零すと、不意に視線を落とした。どうかしたのかと顔を覗き込めば村正がぽつりと呟く。

「眠いままでいいから聞いてくれないか。お前に言っておかなければならない事がある」
「何だよ、急に改まって」
「……父さんには明日にでも話そうと思っているんだが……──私は、大学を卒業したらこの家を出て行こうと思う」
「……え?」

 酔いのせいなのか、頭が回らず村正の言う意味を図り兼ねる。

「家を出るって……村正は一人暮らししたいのか?」
「ああ、いや……というよりも、自立したいんだ」

 村正は空になった皿を見つめたまま酒を一口煽った。釣られて自分のグラスに口を付けるが、何故かもう飲む気になれない。

「私はもう、十二分に世話になりすぎた……里子でありながら響河と変わりない教育を受けさせて貰い、衣食住も一切の不自由を感じたことはない。そればかりか、本当の親のように幼い頃から愛情を注いでくれた」
「……そりゃ、本当の息子同然に思ってるだろ。家族なんだから」
「ああ、だからもう、充分なんだ。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない」

 どこか煮え切らない村正の言い草に苛立ちが募る。アルコールも手伝ってか血液がどくどくと巡り、つい感情のままに言葉を口にする。

「世話になったとか迷惑とか、何なんだよ。父さんが一度でもそんなこと言ったのか? 家族に迷惑かけるのなんて当然のことだろう」
「そうだとしても、私がそう思うんだ。自立して家を出て、もうこの家の世話にはならない。それが私にできる唯一の恩返しだ」
「そんなものが恩返しになると本気で思ってるのか? なぁ、こっち見ろって」
「──…っ!」

 視線を落とし続ける村正に苛立ち、思わず肩を掴んでこちらを向かせる。村正はびくりと肩を震わせると、怯えたような視線をようやく俺に向けた。一瞬の逡巡のあと、意を決したように再び口を開く。

「もう、この家にいるのは苦しいんだ」
「……、何だよそれ……どういうことだよ」
「響河にはきっと解り得ないだろう。父さんが私に愛情を向けてくれるのは、私の向こうに親友だった私の父を見ているからだ。あの人が本当の親のように接してくれる度、私はこの家の人間ではないと思い知らされる。──それに……」
「……それに、何だよ」
「──……いや、何でもない」

 村正は言葉尻を濁すとまた視線を落とした。

「……兎に角、私も長年考えて決めたことだ。父さんも私の意思はきっと尊重してくださるだろう」
「……全然わからねえ」
「──解らない筈だと言っただろう。響河はこの家の実子なのだから」
「そうじゃなくて……っ! 何でお前がそんな顔するのか、全然わからねえよ!」

 どうしてか俺には直感じみた確信があった。村正は決定的な何かを俺に隠している。……いや、酔っ払っているが故のただの思い込みなのかもしれない。未だ村正の肩を掴んだままの手に思わず力が入り、僅かに村正が眉根を寄せる。冷静になろうとゆっくり息を吐き出してみるが、早鐘のように打つ心臓が頭にどんどん血液を送り煮立ったように熱くなる。

「……響河、本当にそろそろ寝た方が良い」
「嫌だ……」
「響河」
「……っ逃げるなよ!」

 衝動に突き動かされるまま、俺は村正の肩を押していた。遅れて感じた衝撃に、二人して床に倒れ込んだことを理解する。床に掌を突き、カーペットの上に村正の鳶色の髪が散らばるのを見下ろすと、戸惑いを露わにした村正の眼とかちあった。

「……響河、落ち着くんだ」
「うるさいっ……何で、家族なのにそんなこと言うんだよ。何でこの家から……俺から、離れようとするんだよ……!」
「響河、……」
「会社を継いだら、お前も一緒なんだってずっと思ってた……だから、俺でも何とかやっていけるだろうって……俺は、お前がいないとダメだ」
「何を、馬鹿なことを言って……」

 アルコールのせいなのか、眦に熱がじわじわと集まってくる。吐露した言葉と一緒に、昂ぶった感情が涙となって溢れ落ち、ぽたぽたと村正の胸元を濡らした。村正は驚いたように俺を見つめる。情けない奴だと思われているのだろう。ようやく酒の飲める歳になったと言うのに、これではまるっきり駄々を捏ねる子供だ。これ以上情けない顔を見られるのに耐えきれず、村正の肩口に顔を伏せる。
 ずっと、傍にいるのが当たり前だと思っていた。俺の中には、過去にも現在にも未来にも、村正がいて当たり前で、それが現実だと思い込んでいた。村正の見ていた未来には、この家も俺も存在しなかったのかもしれないと思うと、ただただ哀しかった。
 幼い頃、てきぱきと俺の世話を焼く村正の姿を見て、父さんは笑って「村正は響河の良い相棒になるな。村正がいれば響河にも安心して後を任せられる」と言っていた。その頃からずっとだ。俺が会社を継ぎ、村正が支えてくれる。そんな絵を描いては未来に心躍らせていた。──それも、全て俺の勝手な思い込みでしかない。そんなことは解っているのに、溢れる言葉を止めることができない。

「村正がこの家からいなくなるなんて絶対に嫌だ……俺の傍にいてくれ……」
「……、」

 言葉尻は嗚咽に呑まれてしまった。村正が一体どんな顔をしているのか、考えたくもない。
 村正が離れていくと思うだけで、如何してこうも胸が締め付けられるのだろう。嫌だ。そんなの許さない。我儘な子供のような感情ばかりが溢れてくる。──それだけではない。村正がこの家を出たらまた、たった独りだ。何故進んで独りになろうとしているのかは解らない。彼が独りになりたがっているのだとしても、俺は、村正を独りにしたくないと思った。それは、幼い頃の誓いでもあり、今の俺の我儘でもあった。十五年以上過ごしてきた様々な感情が駆け巡る。それらは意外にもすんなりと、ある一つの言葉に集約された。気づけば嗚咽と一緒に零れ落ちて、それを口にしていた。

「……──好きなんだ……」
「……、は…?」

 呆けたような村正の声を無視して、衝動的に唇を村正に押し付けていた。びくりと跳ねる肩を押さえ込み、角度を変えて唇に噛み付く。村正が何か言おうとしたのか、唇を開き息を吸い込んだところに舌を捩じ込んだ。頭が茹だりそうだ。何でもいいから、村正を繋ぎ止めたかった。村正は俺の身体の下でもがき、どうにかして俺を押し退けようとしていたが、両の手首を床に縫い止めてしまえばもう殆ど抵抗はできない。身体中を熱に支配され、目を閉じて村正の唇を味わえばもう何も考えられなくなる。

「ん……はぁっ……、」
「、ふ、ぁ……っ、……」

 唇の隙間から漏れる声に、びりびりと耳にも熱が集まる。そうしているうちに、不意に掴んでいる村正の手首がふっと脱力したことに気がつく。不思議に思い、目を開いて顔を離すと、村正が顔を真っ赤にして涙を滲ませていた。
 酔いが一気に醒めて頭から冷水をかけられたような思いがし、胃袋がぎゅうと収縮した。慌てて身体を起こし、掴んでいた手首からも手を離すと赤く跡ができていて、ずしりと暗い後悔に苛まれる。

「──……ごめん、村正、俺……」
「……っ、…」
「本当に、俺、酔ってて……ごめん、もう……」
「、違うんだ……っ」

 絞り出すように言葉を漏らした村正に、目を見開く。村正は自由になった両手の甲で顔を隠すが、真っ赤に染まった耳と漏れ出る嗚咽を隠すことはできない。

「気持ちの整理が…つかないんだ……、十年も前に蓋をして、仕舞い込んでいたのに、どうして……どうして、今更そんなこと……!」

 村正は目を擦りながら泣きじゃくる。村正のこんな姿を見るのは大層久しく、懐かしさとも哀しさともつかない感情が去来する。

「……村正、顔見せてくれ」
「……っ…」

 かぶりを振る村正の、手を掴み顔から引き剥がす。今度は傷をつけないよう、極力優しく触れるように努めた。赤く腫らし潤んだ目が、観念したようにゆっくりと俺を見上げる。赤と瞳のアイスブルーのコントラストが、とてもきれいだ、と思った。

「どうしてずっと、独りで抱えてたんだよ」
「……言えるわけが、ないだろう」
「何でそうやって決めつけて完結しちゃうんだよ……俺ばっかり曝け出して、馬鹿みたいだろ」

 そう言うと村正は眉を下げてふっと息を漏らした。ようやく和らいだ表情に少し安堵する。

「……響河は凄いな。私はずっと逃げ続けていた……忘れたままでいるために、離れようとした。閉じ込めていた気持ちを抉じ開けられただけで、今も、とても怖いんだ……」
「怖いことなんかあるかよ」
「そんなこと……一回でも拒絶されたら、終わりだ。父さんにも顔向けできない。私が響河の人生を壊してしまったらと思うと……」
「村正は、ずっと俺のことばっかり考えてくれてたんだな」
「……っ」

 思わず破顔してそう言うと、村正は目を見開き、ボッと音が出そうなくらい顔を真っ赤に染めた。俺は胸がぎゅうと締め付けられる感覚がして、堪らず村正の胸に縋り付いた。

「──村正、好き……」
「っ、少し待ってくれ……っもう、頭が追いつかない……」
「待てない。まだ村正の口から聞いてない」
「……〜〜っ…」
「村正」
「…………っ好きだ、響河……!子供の頃からずっと……」

 目を潤ませて絞り出すように言う村正を衝動のままに抱き締めると、少しの躊躇のあと背中に腕を回され、ぐっと力を込められた。顔を上げると数センチ先の目の前に村正の顔があり、今更ながら心臓がどきりと跳ねる。自分の顔にも熱が集まるのを感じる。数秒か、もしかしたら数分経っていたのかもしれないが、村正の唇が薄く開かれたのを合図に、俺は再び村正と唇を重ねた。

「ん、ン……ふ、…っ」
「は……っ、ん……ん、」

 自分の唾液が村正の咥内に流れ込み、村正が僅かに眉を寄せて苦しそうに喉仏を下げた。飲み下しきれなかった唾液が口の端から零れていく。何度も角度を変えて咥内を舐りながら、そろりと村正の服の裾から手を差し入れれば、ぴくりと村正の肩が跳ねる。薄手のニットをずり上げながら、薄い腹筋から肋骨のあたりに手を滑らせると、村正は身じろぎして息を漏らした。滑らかな肌をまさぐってその感触を楽しむ。皮膚の薄いところを指が掠めるたび、背中に回された手の指先にぴくっと力が入るのが愛おしくて堪らない。仕舞いにはニットは胸の上までずり上がり、白い肌がすっかり露わになる。唇を離してその眩しいまでの光景をついまじまじと眺めていると、村正が恥ずかしそうに瞼を伏せて顔を逸らした。ゆっくりと呼吸に合わせて上下する薄い胸板の上でつんと尖っている小さな乳頭を見て、喉がこくりと鳴る。浮き出た肋の影をなぞるように掌をすべらせると、僅かにしっとりと汗で湿った肌同士が吸い付いた。薄く色付いたそこを指でふに、と押し潰すと村正が鼻から声を漏らした。何度か指の腹で撫でるとだんだん硬く痼って、白い肌とのコントラストがより強くなる。

「ん、…ぁ……っ響河、そんなところ……くすぐったいだろう、」
「……くすぐったいだけか?」
「そ、れは……」

 弄られて立ち上がった乳首を指で摘むと、村正はびくりと肩を揺らした。俺はひとりでに口の端が釣り上がるのを止められずに、挟んだ乳首をくりくりと捻る。村正は感じ入るように潤んだ目を伏せるが、極力声を上げないよう堪えているらしく、引き結ばれた唇の隙間からくぐもった息が漏れた。震える手が伸ばされ袖の端を掴まれるが、構わず指先を動かし続ける。それだけでは飽き足らず、胸に唇を寄せ突起を口に含むととうとう村正が声を上げる。

「ひ……ぁ、あ……! ん……っや、ぁ……」

 舌先でちろちろと突起を弾くと村正が逃げるように身を捩らせ、俺の頭を押し退けようと手で押すが、まともに力が入らないようだ。宥めるように腰のあたりをさすると、また背筋をびくびくと跳ねさせた。俺の手や指が与える刺激を敏感に拾い上げる村正をいじらしく思う。
 興奮で身体が火照り、熱くて仕方がない。口を離して上衣を脱ぎ捨てると汗の滲んだ肌がひやりとして心地良い。上がってしまった息を落ち着けようと大きく息を吐き出すと、ふと視線を感じて村正の顔を見る。一瞬、蕩けた瞳と視線がかち合った気がしたが、すぐに逸らされてしまう。

「……何だよ」
「、何でもない……」
「見惚れたのか?」

 茶化すように言うと、冗談のつもりだったのだがどうやら図星だったようで顔を背けて睫毛を震わせる。釣られるように頬に熱が集まるが、それ以上に得も言われぬ衝動が込み上げ、再び村正に覆い被さり晒された首筋に唇を落とす。こそばゆさに思わずこちらを振り向いた村正の唇を捕まえて、また唇を重ね合わせた。脇腹に掌を這わせ、今度は下方へと滑らせる。その意図を察した村正は一瞬間を置いてゆっくりと腰を浮かし、俺の首の後ろへ腕を回した。ボタンを外し、余裕のできたそこをひと撫でしてから下着の下へ指を滑り込ませ、ズボンと一緒にずり下げる。膝下まで一気に下げてから脚を引き抜かせて床に放り投げてしまうと、気恥ずかしそうに擦り合わされた太腿の間で兆し始めた陰茎が僅かに持ち上がっていた。掌で数度それを撫で上げればひくひくと震え、村正がむずかるような声を上げる。じわりと滲むカウパーの滑りを借りて先端を撫で回すとびくびくと腰を跳ねさせた。

「ん、ぁ……あ…っ、ふ、ぁあ……ッ!」
「ん……かわいい……」
「……っ!…ゃ、あ……!」

 何度も口付けながら手は止めず、小さく跳ねる陰茎を握り込んで竿を扱く。すっかり勃ち上がった頃、一旦手を離すと村正が何か言いたげな顔をする。言葉にするのを躊躇う様子に思わずふっと息を漏らし、安心させるように微笑みかける。不思議そうにする村正を尻目にずりずりと身体を下へずらしていくと、何をしようとしているのか理解した村正が俄かに慌て始める。離れようとする村正の腰をがしりと掴みながら、もう片方の手を伸ばしベッドの下の引き出しを手当たり次第に探れば目当ての物に辿り着く。それは一先ず側に置き、村正に向き直ると必死になって閉じようとする脚の間に無理矢理身体を滑り込ませる。暴れる脚を押さえ込み、上を向いた陰茎の先端をぱくりと口に含めば村正が悲鳴に近い声を上げる。

「ひぁ、あ……ッこう、が……ゃめ、きたない、から……!」
「大丈夫だから」
「や、あ……っ、ん、ンッ…ぁ……!」

 唇をすぼめて括れた部分を上下させればとぷりとまたカウパーが溢れる。根元を指で扱きながら亀頭を舌で転がすと徐々に先端が膨らんでくるのを感じる。そろそろ大丈夫かと、先程取り出したローションのボトルを手に取り、掌の上に垂らす。指に馴染ませると、固く閉ざされた後孔の表面にぬるりと這わせる。村正はびくりと肩を震わせると、首を起こして縋るような目をこちらへ向ける。

「力抜いて……苦しかったらすぐ言えよ」

 そう言うと村正はゆっくりと頷く。ぬるぬると指を窄まりに這わせ、襞を広げるように小刻みに揺らす。指を動かしながら再び陰茎を咥えれば、後孔がきゅんと反応する。村正が力を抜こうと大きく呼吸をして緩んだ一瞬に、つぷりと中指の先を埋める。第一関節ほどまでをゆっくりと埋め込み、くにくにと動かせば村正が上擦った声を漏らすと共に口の中の陰茎がひくりと戦慄いた。僅かに柔らかくなった入り口にローションを注ぎ足し、更に指を奥へ進めていく。 指をすっかり根元まで入れると、圧迫感があるのか村正が呻き声を上げる。できるだけ違和感が紛れるように陰茎への愛撫を続けながら、中に埋めた指をぐるりと動かす。
 村正の手が所在なさげにカーペットを引っ掻くのが見え、肩掴んでていいからと声をかける。村正は言われた通りおずおずと両手を俺の肩へ伸ばし、手を添えた。村正の表情が僅かに和らいだのを視界の端に捉えてから、狭い中を拡げるために関節を曲げながらローションを馴染ませていく。陰茎が苦しそうに震え、一回イっておいた方が良いか、と考えて舌先で鈴口をぐり、と抉る。

「っ、あ!?……ッぅ、ぁあ……んっ、それ、ア……、!」

 指を痛い程に締め付けられ、肩を掴む村正の手にはぎゅうと力が込められ爪が食い込む。鈍い痛みに愛おしささえ感じながら、口の中で震える陰茎に吸い付く。もう限界が近いようで、びくびくと痙攣する亀頭が大きく膨らんだ。

「あ、っこうが……っ! だめ、もうっ……出る、から、口を……、ぁあッ!」

 離せ、と言われる前に先端に強く吸い付くとどぷりと舌の上に精液が吐き出された。僅かな息苦しさを無視して尿道に残るものも吸い出し、出されたものをこくりと嚥下する。村正が顔を真っ赤にして目を白黒させるので、目を細めてみせる。

「……もう少し、頑張れるか?」
「……、っ…ん、ぁ……」

 こくりと村正の首が動くのを見届けると、中に埋めたままだった指を一度引き抜き、ローションを足して今度は二本の指をゆっくりと埋めていく。先程よりも更に増した圧迫感に村正は眉を顰めて息を詰める。

「ん、ん……っふ、……」

 にゅくにゅくと中で指を拡げるように動かすと、空気が入り込んだせいでぐちゅりと音が鳴り、村正が耐え兼ねたように目を伏せた。指を何度も抜き挿し、だいぶ柔らかくなってきたのを確認すると、もう一本指を増やして念入りに解し続けた。村正が堪えるようにきゅっと強く目を閉じて苦しそうな声を出すのを見兼ねて、萎えてしまった陰茎に再び指を這わせる。中の指をばらばらと動かしながら陰茎を何度か扱けば、また徐々に芯を持ってきて村正の声にも僅かに甘さが戻り始める。自分にもそろそろ限界が訪れるのを感じ、指を引き抜くと前を寛げて下着をずり下ろして、熱く張り詰めた自身の陰茎を取り出した。

「……いいか?」
「、今更訊くな……っ」
「……ごめん」

 ローションと一緒に取り出して床に落としてあったコンドームを手に取り、装着する様子を村正は固唾を飲んで見守っていた。ぴたりと先端を窄まりへ当てがえば、肩に添えられた村正の手がひくりと震えた。ゴム越しに触れる村正の粘膜はそれでも蕩けるように熱く、背筋がぞわぞわと粟立った。息を詰めながらゆっくりと腰を押し進めると、後孔の縁がみちみちと拡がり村正が苦しそうな呻き声を上げた。

「ぁ、ぐ……、ん…っ」
「……息、ゆっくり吐いて……そう、」
「ふ……っ、はぁ……」

 腰骨に手を添え、村正が喉を震わせながら息を吐き出すのに合わせて奥へ挿入していく。紛れもない肉を抉じ開けるような感覚に心臓をきゅうと掴まれるような心地がした。明らかに村正に無理をさせているであろう罪悪感に苛まれながらも、行為を止めることはできない。ようやく全てが村正の中に収まると、申し訳なさと充足感が綯い交ぜになり大きく息を吐く。

「全部、入った……っ」
「ん……響河……」

 名前を呼ばれて顔を上げると、顔中を真っ赤に上気させた村正に潤んだ目で見つめられる。身体を前に倒すと、また村正の腕が俺の首の後ろへ回される。殆ど無意識に唇を啄むと、そろりと伸ばされた舌に唇を舐められた。応えるように舌を伸ばし、互いに絡ませ合う。暫く動かないままそうしていると、時折中がきゅんと小さく震え、愛おしさにどうしようもなく熱いものが込み上げた。
 どれくらいそうしていたのだろうか、唇を離すとどちらのものか判らない唾液が糸を引いた。見下ろした村正の瞳は熱をたたえ、今すぐにでも滅茶苦茶に腰を振りたい衝動に駆られる。しかし、これ以上村正に無理を強いるのは気が咎めた。こうして触れ合えただけでも充分気持ちが良かったし、今日はもうやめておいた方が良いのでは……などとぐるぐる考えていると、村正がふっと息を噴き出した声で我に返る。

「何て顔をしているんだ」
「え……」

 まさかこんな時に笑われるとは思わず、面食らってつい呆けてしまう。村正は腕に力を込めて俺の身体を引き寄せると、ふわりと瞳を蕩けさせた。

「……大丈夫だから」

 そう言ってまた唇を合わせる。俺は何だか全てに負けたような気がしながらも、腹を括ってゆっくりと腰を揺らめかせ始める。馴染ませるように小刻みに動くと、合わせた唇の隙間からまた村正のくぐもった声が漏れる。互いの身体の間に手を差し入れ、腹の上に横たわっている村正の陰茎を再び掴む。掌で包み込むように撫でていると徐々に芯を持ち、受け取る刺激に反応して中もひくひくと収縮した。慈しむように背中を村正の掌でひと撫でされると、これまで必死に自制していた腰が衝動に突き動かされるまま打ち付けられてしまう。一度越えてしまうともう戻ることはできなかった。

「っあ……!ん、ンっ……ふ、ぁ」
「ん……はぁッ…、ぁ…むら、まさ……っ」
「こ、うが……ん、あ…ッこうが……!」

 込み上げる熱に身を任せて抽送を繰り返す。動きに合わせて漏れる声の合間に互いの名前を呼び合うと脳がじんと痺れるように心地が良かった。高まる射精感に村正の陰茎を扱く手も早める。奥に打ち付けるように腰を突き出すと限界寸前だった熱が爆ぜ、ゴムの中に精液が吐き出された。暫く余韻に浸るようにゆるゆると腰を揺らしていると、村正もいつのまにか腹の上に精液を散らしていた。
 陰茎を引き抜いてゴムを捨ててしまうと、互いの呼吸が落ち着くまで抱き合って触れ合うだけのキスをした。潤んだ唇のやわらかな感触を一頻り味わうと、どちらともなくシャワー浴びるか、と提案され、時計を見ればもうとっくに零時を回っていた。二人で連れ立ち声を顰めて風呂場へ行き、べたつく身体を洗い流すと、また抜き足差し足で部屋へ戻る。まるでこっそりお互いの部屋で眠っていた幼い頃に戻ったみたいだと笑う。
 そのまま離れにある自室に戻ろうとする村正に、久しぶりに一緒のベッドで寝ようと言うと、彼は少しの逡巡のあと頷いた。セミダブル程の大きさのベッドは、あの頃は二人で寝てもあんなに広かったのに、今は大の男が二人寝そべれば当たり前に狭苦しい。身を寄せ合うのが何だか気恥ずかしくて可笑しくて、二人で一頻りくすくすと笑い合った。


「……こんな日が来るなんて、夢にも思っていなかった」

 村正は俺の胸元に顔を寄せると、吐息のようにそう呟いた。噛みしめるような言い方に、胸がぎゅうと締め付けられる。村正の身体に腕を回すと、柔らかく顔を綻ばせ、潤んだ目元を蕩けさせた。頬に集まる熱を誤魔化すように慌てて口を開いた。

「俺、全然信用されてなかったんだな」
「私がいないと課題もまともにできない弟だからな」

 今日の出来事が走馬灯のように蘇り、言い返す言葉も出ない俺はぐっと息を詰まらせた。そんな俺を見て村正はくすくすと笑い、冗談だ、と言った。

「私に勇気がなかっただけだ。響河のためとあれやこれやと理由を付けて逃げ続け、結局は自分が傷つくのが怖くて仕方無かったんだ」

 俺は村正との繋がりが切れ、自分の前から居なくなってしまう方がよっぽど怖いと思いながら、静かに本心を打ち明けてくれる村正の言葉に耳を傾けた。

「私の浅ましさのせいで、弟としての響河まで失ってしまう……そんな悪夢ばかり見たよ」
「……そんなこと、あるわけない」

 思わず口を挟むと、村正は眉を下げて息を吐き出した。

「全てが壊れるくらいなら何も得ない方が良いと思っていたんだ。上手く忘れることができるかもしれないと期待して女の子と付き合ったりもしたが、──それでも矢っ張り駄目だった」
「へ?」

 聞き捨てならない言葉がさらりと吐き出され、素っ頓狂な声を上げてしまう。

「待って、村正彼女いたのか? いつ?」
「何だ気づいてなかったのか。高校のクラスメイトで志望校が同じだったんだ。卒業間近に告白されてな」
「マジかよ……全然知らなかった」
「そういう響河だって同じような時期に彼女がいただろう」
「何でそっちは知ってるんだよ……向こうから勝手に寄ってきただけだし、すぐ別れたのに」
「そうだったな」
「高校生のくせに俺の親が社長ってこととかウチの製品のことしか喋らなくて滅茶苦茶ウンザリしたからひと月もしない内に……ってそんなことはどうでもいい」

 俺は自分の鈍感さを呪って顔を痙攣らせた。いや、十年以上も気持ちを隠し通していた村正だ、上手く隠していたのかも知れない。尤も、自分の場合は気持ちを自覚したのがついさっきなのだから、仮に当時知っていたとしても何もできはしない。八つ当たりのように何で言わなかったんだよ、と呟く。

「当時は隠していたつもりもなかったのだが……しかし今思えば、敢えて打ち明けようとしなかった時点で私の目論みは失敗していたのかも知れないな」

 村正を抱く腕が強張るのを感じながら目を泳がせていると、村正がまた言葉を続けるべく口を開いた。今更知った事実は衝撃的だったが、今まで隠されていた村正の心を自ら話してくれるのは少し嬉しくもあった。

「結局、私の下心はバレバレだったようで一年近く経った頃振られたよ。今でも良き友人でいてくれているが……利用するような真似をして、彼女には申し訳なかったな」

 過ぎたこととはいえ複雑な気持ちが湧き上がり、どうにか折り合いをつけようと密かに深呼吸をする俺を尻目に、村正は更に言葉を続ける。

「何をしていても、彼女と身体を繋げる時さえ、頭の中はすぐに響河でいっぱいになってしまう。どんな時でも響河ならば、とどうしても考えてしまって、苦しかった……」
「──え……、もしかしてその彼女と俺を重ねたりしてたのか?」

 今更ながら、村正の意思をきちんと確認せずに自分本位で事に及んでしまったことを思い出し心臓がずんと重くなる。合意が無かった訳ではないと思いたいが、無理を強いたことは紛れもない事実だ。村正だって男なのだから、自分と同じ感情を抱いて当たり前なのに──後悔が胸に陰を落とし思考がぐるぐると巡り散らかっていく。少しの間を置いて村正が口を開こうとしたので、無意識に身構えた。

「いや、私は…………──私は、響河に抱かれたかった」

 胸板に顔を埋め意を決したように呟かれた言葉は蚊の鳴くように小さな声で、語尾は殆ど消えかかっていたが、確かに俺の耳にまで届いた。その意味を咀嚼して飲み込むまでに数秒を要し、その直後一気に頭に熱が集まって耳まで熱くなる。堪らず村正の身体を力任せに抱き締めると、顔を強かに胸板へ押し付けられた村正が呻き声を上げた。寝巻き越しに触れている村正の顔は自分の顔と同じくらいに熱い。

「……それ聞いてから抱けばよかった」
「…、っ……」
「昔から俺に抱かれるの、想像してたのか……?」
「、言わせるな、馬鹿……っ」
「教えてよ」

 ぶんぶんと腕の中でかぶりを振る村正に悪戯心が湧き、背中に回した手で背筋をすうっとなぞれば村正の肩がびくりと跳ねる。上から下に滑らせて腰のあたりを撫でると胸板を叩かれたが、全く痛くないのでそのまま手を動かし続ける。村正の身体を撫で回しながら、髪に顔を埋めてぐりぐりと押し付けていると、言うまで止めないと悟った村正は観念したように抵抗をやめた。

「一度だけだ……っ!それきり諦めようと思って、一度だけ自分で、後ろを触った……」
「……それ本当?」
「誰がそんな下らない嘘吐くか」

 返ってきたのは予想以上の言葉で、思わず目を瞬かせぴたりと手を止める。申し訳なさを通り越したあとはじわじわと背骨に熱が集まる心地がした。

「その時は苦しいばかりで、結局全然気持ち良くなかったが……今日は苦しさよりも、それ以上に満たされて、あたたかくて……」
「……それ以上言われたら、またしたくなるんだけど」
「それは困るな。折角の日曜なのに寝坊してしまう」

 ふふ、と笑った村正が不意にずっと伏せていた顔を上げ、どきりと心臓が跳ねる。視線が合うと殆ど無意識に、村正、好きだ、と零していて、薄水色の瞳がまた揺れた。潤んで煌めく眼が三日月型に細められたあと、ゆっくりと閉じられたので、吸い寄せられるように唇を合わせた。触れるだけのキスを何度かしたあと、このままでは本当に我慢できなくなってしまうと思い、名残惜しくはあったがそろそろ寝るかと声をかけた。
 スペースが限られているためできる限り身を寄せ合い、俺の腕の上に村正の頭を乗せればふわふわとシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。村正は再び俺の腕の中で丸くなり、目を閉じる。暫くその光景を眺めていたいような気がしたが、心地良い疲労感には抗えず徐々に瞼が降りてくる。とろとろと沈みゆく意識の中、村正がまた口を開く。

「子供の頃も良くこうして一緒に眠ったものだな」
「ああ……バレないように朝皆が起きだす前にこっそり部屋に戻ってな」
「響河が一人で寝るのが寂しいって駄々捏ねて、私を自分の部屋まで連れ出したのだったな」
「何でそんな昔のことまだ覚えてるんだよ……」
「覚えているさ」

 村正は懐かしさに浸るかのように呟いた。俺は自分の恥ずかしい記憶ばかり掘り起こされているような気がして面映ゆかった。しばらくそのまま村正は黙ったままで、もう眠ったのかと思って自分も意識を飛ばしかけた頃、再び聴こえた小さく囁くような声で辛うじて意識が引き上げられる。

「……これもずっと、皆に黙っていたことだが……昔、お前がお爺様に食って掛かっているのを、本当は偶然私も聞いていたんだ」
「ん……爺ちゃんに……?」

 要領を得ない言い方に、眠気でぼんやりする頭では何のことなのか思い出せない。眠らないようにだけ気をつけて大人しく村正の続ける言葉を待つことにする。

「今でこそ、お爺様は私にもとても優しいが……私が引き取られた初めの頃は、やはり養子にもなっていない他人が家に入っているのを嫌がられていたようだ。子供でも何となくそういうのは気づいてしまうものだな」
「……俺は小さすぎてあんまり覚えてないな」
「そうだろうな。此処へ来て一年経った頃だから……お前は六歳になった頃か。父さん達は私がお前の部屋に寝泊まりしていることについて何も言わなかったが、元より血を大切に守ってきた家だ。お爺様はそれに気づくと私の姿が見えない所で私のことを言ったんだ。あれを母屋に寝かせるなんて、といったことをな」

 聴いているうちに、朧げながら記憶が呼び起こされてくる。父さんたちは、まあまあ子供なんだし、と爺ちゃんを宥めていた気がする。その後確か、俺が村正を部屋に呼んでいたと知って俺に矛先が向いたのだ。つまらん我儘でこの家を汚すなと言われ、俺は全く意味が解らなかったけれど物凄く腹が立って、それで──

『爺ちゃんたちは知らないかもしれないけど、村正は夜、毎日泣いてたんだぞ!ひとりにしておくなんて、そんなひどいことできるわけないだろ!』

 今まで思い出さなかっただけで、はっきりと憶えている。俺は自分も大泣きしながら喰って掛かって、大人たちは大層驚いていた。一家の主人である祖父に口答えしたことも、その内容にも。
 月明かりの中で見た光景、その色、音までも、はっきりと脳裏に蘇る。兄ができたばかりで浮き足立っていた俺は、夜トイレに起きるついでに悪戯心が湧いて、離れにある村正の寝室に忍び込もうとしたのだ。扉の隙間から見えたのは、肩を震わせ声を殺して泣いている村正の姿だった。丸まった小さな背中を見て居ても立っても居られなくなった俺は、次の晩、村正に頼み込んで俺の部屋で一緒に寝てもらうことにしたのだ。
 村正は俺が静かになって眠ったと思うと、同じように声を殺して涙を流していた。俺は寝たふりをしながら村正の手を握り、身を寄せていると村正は泣き止み、そうしてようやく二人で眠ったのだった。毎日毎日そうしていて、いつのまにか村正は俺の手を握ってすぐに眠れるようになっていた。
 ──思い出した。思い出せる、全部。

「響河は本当は、私を一人にしないために傍にいてくれた。私を庇って、お爺様に大声上げて……私はちょうどその時扉の外で聴いてしまっていて、響河のしてくれていたことに気がついたんだ」
「……、」
「その時私は決めたんだ。この先何があっても、私は響河の味方でいようと。響河が形振り構わず私を思い遣ってくれたように、私も──」
「…村、正……」
「……と、お前は憶えていないんだったな」
「、いや……」

 感極まって、喉が震えそうになる。意識はすっかり覚醒してしまい、肩の震えを隠すために村正を抱く腕の力をぎゅっと強める。俺の変化に気がついた村正が、響河?と不思議そうに名前を呼び、目を開けて顔を上げようとする。駄目だ、今顔を見られるのはまずい。俺は慌てて村正の身体を強く手繰り寄せ、その肩口に顔を押し付けた。

「憶えてるよ……あの頃の気持ちが全部の始まりで、それが今の俺の中にもそっくりそのまま残ってる。村正を二度と一人にしたくないし、村正を守りたい。だから……俺の傍にいてほしい」
「、響河……」

 村正は震える俺の背中にそっと手を伸ばす。掌の熱がじんわりと心地良く、いつまでもこうしていたいと思う。

「──私も、響河の傍にいたい。お前の支えとなって、お前の人生の一部でありたい。だから響河もずっと、私の傍にいてくれ」
「……すっごい殺し文句。プロポーズみたいだな……」
「先に言ったのは響河だろう」
「……なら、誓いを立てなくちゃな」

 意を決して顔を上げ、赤く腫れているであろう目にはもう構わず村正と視線を合わせる。カーテンの隙間から漏れる月明かりに照らされる村正の唇に、ゆっくりと自分の唇を重ね合わせた。

 顔を離した村正の、今にも泣きそうな笑い顔を、この先何十年経っても忘れないだろう。





20180901
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